カント『純粋理性批判』 ゼミ
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p.13
第一版序分(1781年)
Ⅰ
人間の理性は
理性が斥けることもできない問題
答えることもできないような問題
に悩まされるという Schicksal[n]:宿命 を担っている.
理性が斥けることができない とは
これら[理性が斥けることもできないような]の問題が理性の Natur[f]:自然的本性(ほんせい) によって理性に課せられているから
理性が答えることもできない とは
かかる問題[理性が答えることもできないような問題]が人間理性の一切の能力を超えているから
Natur[f]:自然的本性 = 人間がみな共通に有している自然の組成や性質,人間の本質
人間の理性が,このような宿命を担っている苦しい立場に陥いるのは,理性に責任があるわけではない.
理性は原則から出発する
これらの原則は, 人間の経験においては必ず使用されるようなものでなければならないもの
同時に
この[原則の]使用は経験によって十分に実証せられている
これらの原則をもって 理性は(その自然的本性上、必然的にそうせざるを得ないので) 条件からそのまた条件へと条件の系列を遡ってますます高く昇っていく.
Ⅱ
しかし理性が悩まされる問題は
[理性の用いる原則は、経験の域を脱したものでなければならないのに,経験によって為されてゆくことになり]
尽きるところを知らないので,
理性は
このような仕方[条件の系列を遡ってますます高く昇っていく仕方]では
理性の Geschäft[n]: 務め がいつまでも unvollendet: 未完成 のままでなければならない[bleiben müsse]ということに気づく
そこで理性は,
原則の一切の可能的な経験的使用[möglichen Erfahrungsgebrauch] を超える
[「理性の原則とはこういうものだ」ということを、
経験のなかから,定義すること,理性の原則を作成することは不可能]
にも拘わらず
[理性の務めを完成させるため] 常識とすら一致するほど確実に見えるような原則に逃避せざるを得なくなる→ 混迷と矛盾に陥る→ どこかに隠れた謬見が根底に潜んでいるのに違いないことを推量しはするものの, 理性の用いる原則は, 一切の経験の限界を超出しているので, 経験による吟味をもはや承認しないから どこかに隠れた謬見を発見することができない
p.14
この果てしない原則の争いを展開する競技場 = Metaphysik[f]: 形而上学
今日では,かつての対象が著しく重要な形而上学にあらゆる軽蔑をあからさまに示すことが,時代の好尚(Modeton[m] : はやり,流行) となってしまった
Ⅲ
形而上学の統治は,最初は 独断論者(Dogmatiker[m]) の執政下にあって専制的であったが,無政府状態 に堕した
独断論 カントは非難の意味をこめて用い,認識能力の限界や本質について吟味せず,純粋な理性によって実在を認識しうると考える形而上学説(『岩波哲学小辞典』p.169)
(ここでの独断論者とは,デカルトやスピノザ etc... を指している.)
懐疑論者(Skeptiker[m]) は,しばしば国民の結束を寸断したが,独断論者が新たに形而上学の植民を企てるのを防止できなかった.
近代に及んで,これら一切の紛争が終結を告げ,形而上学(原文では,指示代名詞 jener)の[諸学の女王であるという]要求の合法性に関する問題が解決せられるかの観があった.
ところで形而上学が経験に由来するという疑いは「理性の用いる原則は,一切の経験の限界を超出している」(p.13)から間違いだった.
p.15
IV
そこで形而上学は依然として[諸学の女王であるという]要求を主張することになり, またしても 独断論 に陥いり,軽蔑(Geringschätzung[f]) のなかに落ち込んだ.
現代では,形而上学のあらゆる方法(Wege)が(一般の定説によれば)試みられ,無駄(vergeblich) に終わったあげく, 学問(一般)において優勢なものは疲労と全くの 無関心 とである
これ[疲労と全くの無関心]は学問(科学 Wissenschaften)の世界に,混沌と暗黒とを産む母であるが,
同時に,使いかたの不適切な努力のために学問が却ってはっきりしなくなり,
混乱に陥り
また
役に立たなくなった際には
やがて学問を改造し
開明する根源となり
[学問において有力な傾向をなす,疲労と全くの無関心は]少なくともその序曲をなすもの
無関心でいられない ような対象に関する研究に 無関心 を装っても無駄(umsonst) [理性の用いる原則は,一切の経験の限界を超出している(p.13)から]何かを考える限り,形而上学的見解に立ち戻らざるを得ない.
しかし諸学が全盛を競うさなかに生じ、 しかももし得られるものであるなら何びとといえども一切の知識のうちで最も愛して大切にするところの学[形而上学] に対する[カント以前の形而上学が抱いていた矛盾に気づいたため,懐疑による]無関心は, 注意と熟考(Nachsinnen)とに値する現象だ.
V
この無関心 = もはや見せかけの知識[カント以前の形而上学が抱いていた矛盾]に釣られていない現代の成熟した 判断力 の結果 = 自己認識に着手し,そのための 純粋理性批判 を設けよ,という理性に対する要請
p.16
VI
即ち 理性の自己認識の任務のための法廷 = 純粋理性批判は, 理性の要求 が 正当であれば 理性を安固に 不当であれば 要求を強権の命令によってではなく,理性の永久不変な法則によって棄却し得る
純粋理性 人々が一口に理性と考えている、知識と理性との混合物から,一切の知識を排除したア・プリオリな理性
しかし私がここに言うところの批判[純粋理性批判]は,ア・プリオリな認識に関して,理性能力一般を批判すること 従ってまたこの批判は, 形而上学一般の可能もしくは不可能の決定 この学の源泉,範囲および限界の規定 ということにもなるが, しかしこれらは原理に基づいてなされる.
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